(Canons)Epees Souveraines
~Swords of Sovereignty~
Bouvinesの戦い 1214年7月27日
〔バルバロッサ:赤髭帝フリードリヒ1世の孫でハイリンリヒ6世の嫡子フリードリヒ2世が幼い為に帝位継承権とドイツ王位を放棄してシチリア王に甘んじる中、ドイツでは英国宮廷育ちで帝国諸侯でもないヴェルフェン家のオットー4世が帝位を継ぎ、シチリア征討を企てるが、シチリア王国の摂政でフリードリヒ2世の後見人であった教皇インノケンティウス3世がオットーを破門。その間に仏王の助言と教皇の意志に従ってフリードリヒ2世が皇帝に選出され、驚いたオットーはシチリア攻撃を中止してドイツへと戻ったが、17歳となったフリードリヒ2世を押し立てるシュタウフェン勢はヴェルフェン勢をザクセンへ追いやった。けれども、6万の兵を擁してのザクセン攻略はオットーの頑強な抵抗で頓挫し、フリードリヒ2世は西へ引き返した。
しかし、真の敵が仏王であること、また仏軍と戦うにはイギリスとの同盟において戦うしかないことを十分心得ていたオットーは、仏を挟撃すべく弱い自力の軍隊にブラバント、ブーローニュ、ホラントからの加勢を得て、ライン河国境を越えて東から進撃した...〕
リールの東、ブーヴィーヌの合戦は、劣勢の仏軍に苦戦を強いたが、最後に決定的な勝利を得て、オットー4世は敗走し、長らくケルンに隠れていなければならなかった。フランドル、ブーローニュ両伯爵は捕虜となった。
英軍のジョン無地王は、ポワトゥからイル・ド・フランスを目指して西から攻勢を掛けたが、仏王太子によって撃退され、教皇の仲裁で休戦を結び、大陸の残されたボルドーを中心とするガスコン、ギエンヌの地だけは確保することができた。
この合戦は英仏の歴史にとって画期的出来事であった。試練に耐えた仏王は、自分よりも有力な家臣でもあるプランジネット朝イギリス王を大陸からほぼ駆逐し、その領土を王領に編入することができた。
15年後にはアルヴィジョア十字軍によって、仏南部を吸収し、仏の王権は揺ぎ無いものとなった。
他方、イングランド王ジョンは、度重なる失態の故に、翌1215年、貴族・聖職者・ロンドン市民からなる身分制議会に「大憲章」を発布し、その権利と自由を認めねばならず、以後、イギリス憲政史の展開が始まることになる。
《ドイツ中世前期の歴史像 瀬原義生/著 文理閣/2012年10月刊 462ページより》
Worringenの戦い 1288年
聞き慣れないゲームメーカーだが、フランスのヴァエ・ヴィクティス誌系のゲーム出版社